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占いはどこまで正しい?戦国武将と占いの関係

   

この時代の軍師は占い師でもあった

作戦参謀を務めた軍師は戦国時代中頃に登場し始めた人たちで、それまでの軍師というのは、占いや祈祷といった呪術的な仕事で武将に仕える存在でした。

例えば、出陣に際して吉凶を占い、日時や方角などをアドバイスしたり、何か縁起の悪いことが起これば、御祓いをしたりといった具合で、「戦術」ではなく「占術」が元々の軍師の仕事です。これを担ったのは主に陰陽道に通じた僧などで、吉凶を占う際に軍配を用いたので彼らは「軍配者」と呼ばれました。

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足利学校の出身者は軍配者(軍師=占い師)として重宝されていたようですし、占いは意思決定において重要な要素でした。

薩摩島津氏のお抱え軍師、川田義朗は主君島津義久から出陣の日を諮問された時、霧島神社に参籠しその神前でクジを引きそれを元に出陣日を答えています。

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いまから見れば「そんな無責任な」決定方法ですが当時は真剣にくじ引きの結果を大切にしました。

大友氏には角隈石宗という高名な軍師がいましたし、伊達政宗は修験者の良学院栄真なるものを軍師(祈祷師)として使っており結城晴朝も上野幸源なる修験者を軍師にしていました。

あまり名前が出ませんが、当時の名だたる大名にはお抱えの占い師がいました。

■ くじを引きすぎて家臣に嘆かれる – 島津義久

島津氏第16代当主。 島津氏の家督を継ぎ、薩摩・大隅・日向の三州を制圧する

沖田畷の戦いや豊後侵攻戦などで出陣するときにはくじで吉凶を占うなどしている。特に豊後侵攻戦においては幾度もくじを引いたため、家臣の上井覚兼には日記で「兎角愚慮の外の由也」と記され嘆かれている

沖田畷の戦いは大勝。豊後侵攻も成功しているので占いあたっていたのかも?

■ 占いを信じた結果大敗、総大将討死 – 大友親貞

北側に布陣する大友親貞は占いの凶兆を気にし直ちに総攻撃には踏み切らず、8月20日をもって佐嘉城に総攻撃を開始することを決定する。ところが総攻撃の前日の夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩めてしまう。

この延期した結果、総大将である大友親貞が戦死するという珍しい結果に。占い大外れですね。

■ 謀反する意思は固まってるけど一応占う – 明智光秀

本能寺の変を起こし信長を暗殺。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、落ちていく途中、一説では小栗栖で落ち武者狩りの百姓から致命傷を受け、自害した。

愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで三度おみくじを引いたと伝えられている。ただし、神籤を三度引いて三角に置き、銭を三枚放り投げて一枚だけ表裏異なる位置の神籤を神意として読むという擲銭法による占いは当時はメジャーなものであった。

愛宕百韻は本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀が張行した連歌です。この時に織田信長の殺害という宿願の祈請を歌でしていたとされていますし、占った結果で行動を変えるつもりはなかったのかも。

■ 占いを信じて錯乱するが幕府からお咎めなしのセーフ – 鍋島直茂

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、実質的には大名。戦国大名・龍造寺隆信の家老。肥前佐賀藩の藩祖。

勝茂はこれらの件に対して、例えば一子の突然死後に半ば錯乱した父・直茂が巫女の占いを信じて家士数人を殺害すると、これを諌める書簡を江戸から送り、伯庵の訴えには穏便に処理するよう幕府に願い出たりしている。

なんで巫女の占いを信じて家臣を殺害するのが謎ですが…なんのお咎めもなくお家騒動にもならなかったので占いあたっていたのかも?息子の鍋島勝茂はとばっちりですね。

■ 占いを打ち破り物の怪を討ち取る – 薄田兼相

この土地は毎年のように風水害に見舞われ、流行する悪疫に村民は長年苦しめられてきた。悩んだ村民は古老に対策を求め、占いによる「毎年、定められた日に娘を辛櫃に入れ、神社に放置しなさい」という言葉に従い、6年間そのように続けてきた

7年目に同様の準備をしている時に薄田兼相が通りがかり、「神は人を救うのでもので犠牲にするものではない」と言い、自らが辛櫃の中に入った。翌朝、村人が状況を確認しに向かうと辛櫃から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性を攫うとされる大きな狒々が死んでいたという

魁題百撰相のテーマにもなっている薄田兼相の物語です。占いというか伝承が物語化されて人気になりました。

無残絵(むざんえ)は、江戸時代末期から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式のひとつである。「英名二十八衆句」「東錦浮世稿談」「魁題百撰相」の3つが代表的作例。その多くは、芝居の中の殺しの現場などをテーマとしており、画中に血液、血痕などを殊更に色鮮やかに描いているため、「血みどろ絵」、「残酷絵」、また「無惨絵」とも表記される。

■ 当たらなかった占いに多額の褒賞 – 淀殿

出典senjp.com

戦国時代から江戸時代初頭の人物。豊臣秀吉の側室。 位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々および浅井 菊子。浅井三姉妹の一人。

1611年、徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会談をする話が出た。淀殿は秀頼の身を案じ、軍配者の白井龍伯にそのことに関しての占いを頼んだ。彼は心身を清らかにして7日間、香を焚いて煙の中の気を3度見たが、すべて大凶と出たので、それを片桐且元に報告した。

結果、会談では何事も起こりませんでした。占い師(軍配者)の白井龍伯は白銀100枚を与えられ、占いをやめて過ごします。外れて褒美を与えられて仕事を止めるという。

戦国時代以前から占いが信じられていました

源頼朝 – 挙兵の吉日を占いで定める

挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。皆に自身のみが抜群の信頼を得ていると思わせ奮起させたのである。挙兵の前日、参着を命じていた佐々木盛綱ら兄弟が参じず、頼朝は兄弟に計画を漏らした事を頻りに後悔する。当日の8月17日昼、急ぎ疲れた兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に佐々木定綱、経高、盛綱、高綱、加藤景廉を従え山木兼隆を討ち、平氏打倒の兵を挙げた。

源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになる。

大敗して命からがら落ち延び再起します。占いが外れたとも、当たったともどちらとも言えませんね?

足利義満

南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。金閣寺を作った人。

足利義満の為に祈祷を行ったところ、効果があったということで義満の個人的な信頼を得たのである。以後、義満は祈祷や占い事は必ず有世に依頼するようになり、有世も義満の依頼を天皇や摂関家の依頼よりも優先するほどの奉仕を行った。

安倍晴明の14代目の子孫である安倍有世のエピソードです。公家社会で当たる占い・祈祷は何よりもありがたられました。



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